岩坂彰の部屋

岩坂彰
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第3回 本作りは人とのつながり(前半)

いえ、ほんとうに芸能人に合わせているわけじゃないんです。でも、肋骨を骨折しました。車を洗っていて溝にはまったんです。湿布を貼ってコルセットをするだけなので、とくに日常生活に支障はないのですが、趣味の弓を引けないのがちょっと残念です。


「原稿を書いてから1週間後、おそるおそる引いてみました。」

私が高校時代に弓道を始めたのは、独りでする武道だったから。剣道や柔道は相手があっての勝ち負けですが、弓は的だけあれば自分と勝負ができます。 そう、つまり人付き合いが苦手な子供だったんです。会社勤めを辞めて翻訳家を目指したときも、独りで出来る仕事、ということが念頭にあったように思いま す。

翻訳家というのは、だいたいそうなんじゃないでしょうか。仲間と一緒に何かをするのが大好きな人は、こんな仕事は選ばないでしょう。ところが、翻訳 の仕事をしていると、どうしても人と関係を築かなければならない場面が出てくるんですね。私の場合は、ニュース翻訳チームのマネジメントなんていうちょっ と特殊な仕事をするはめになりましたが、そうでなくても、編集者との関係は仕事の鍵です。ノンフィクションでは、監修、監訳が付いたり、共訳になったりす ることもめずらしくありません。

今回は、監修者と編集者と翻訳者との関係に焦点を当てて、その関係の中で良い本を作るにはどうしたらよいか、ということを考えてみます。

なぜ学術書には問題のある翻訳が多いのか

参考資料として図書館から翻訳された専門書を借りてみたら、何のことやらさっぱり分からないという経験は、どなたもお持ちだろうと思います。その分 野の専門用語が分からないということはあるでしょうが、たいていは翻訳が悪いんです。原書を参照したら、なあんだそういうことだったのか、となることもあ ります。こうなってしまう原因は、「人に読ませるために訳していない」ということに尽きます。そんな「訳」でも、その分野の専門家は、まるで暗号を解読す るように読み取れるでしょうから、いいのです。極端な話、研究者が実績を作るために「本を出す」ことが唯一の目的だったりするので、誰も読まなくたってい いのです。

けれども、一般向け学術書とか教養書とか呼ばれる本になってくると、そういうわけにはいきません。30年ほど前になりますか、『翻訳の世界』誌上で別宮貞徳先生が欠陥翻訳を指弾な さっていた頃は、出版社がその分野の偉い先生(これは売上を確保するために必要)に依頼し、偉い先生は(もちろん翻訳なんてやっている時間はありませんか ら)弟子の大学院生あたりに分割して翻訳させ、翻訳の経験などまったくない院生がとりあえず英文和訳して、先生が(原書も見ずに)訳文にだけ一通りざっと 目を通し、何のことやら分からない訳文に編集者が頭を悩ませ、先生の了解を得て編集者が辞書を片手に文章に手を入れられればまだましで、玉稿に手を入れる ことはまかりならぬと、そのまま活字になってしまう……と、これは私の想像ですが、いろいろ漏れ聞こえてきたことからすると、そんな状況があったようで す。

しかし次第に出版社のほうも、人に読んでもらう文章を書くには、それなりの技能(または姿勢)が必要なのだというごく当たり前のことに気付くように なり、私たちのような「プロの」翻訳家の出番となりました。といっても、翻訳家は専門的な知識を持っているわけではありませんから、やはり監修、監訳とい う形で、専門家の指導を仰ぐ必要があります。ここで、専門家の側がイニシアチブをとるのか、出版社側が主導するのかは本によって違ってきますが、いずれの 場合も、実際の翻訳作業の流れは編集者がコントロールします。(ですから、以下の話はおもに編集者の方に読んでいただくつもりで書いております。)

おそらくいちばん一般的な形は、出版社が企画した本について、まず編集者がネームバリューのある監修者を探し、次にその分野を訳せそうな翻訳者に編集者から翻訳を依頼し、出来上がった訳稿を編集社経由で監修者に渡して朱を入れてもらう、というやり方だと思います。

このとき、編集者と翻訳者の距離が遠いと(もちろん東京と北海道とかいう地理的な遠さではなくて、意思の疎通の問題です)、翻訳者から全体の状況が 見えずに、下訳のつもりで無責任な訳語処理をしたり、逆に自分が最終責任を持っているつもりで注も付けずに大胆に意訳をしたりしてしまいがちです。いきな りそんな訳稿を見せられる監修者も困ってしまうでしょう(まあ、中には全然困らない――原稿をちゃんと読まない――監修者もいるようですが)。そして最後 には、やはり編集者が辞書を片手に……となるのです。

問題は専門用語だけではない

翻訳者に翻訳を依頼し、それとは別に監修者に監修を依頼する、という流れの裏には、「翻訳者には読みやすい文章で訳してもらい、専門家には正しい用 語の使い方を見てもらえばよい」という発想があるように思います。たしかに用語の使い方は大きな問題です。けれども、このような一方通行のやり方で、正し くかつ読みやすい訳文ができるかというと、まず、無理でしょう。

第一に、読みやすい文章というのは全体が連動しているものですから、一部の言葉だけ入れ替えたら全体が崩れます。少なくとも、前後に修正を施す必要 が生じます。第二に、もっと根本的な問題として、読みやすさというのは読者によって違うもので、どのような読者を想定するかによって訳し方が変わってくる ということがあります(これについては前回書きました)。どのような読者を想定するか、つまり、その本はその分野の中でどのような位置づけになるのか、そ ういったことは本の企画者や監修者の判断事項で、そういう情報なしにいきなり「読みやすい訳」にしてくれと言われても、こんなもんでいいかな、という程度 の訳しかできません。

せめて翻訳の依頼の際に、編集者や監修者の意図(どんな読者にどういうふうに読んでもらうことを考えているか)を伝えていただきたいものですが、い ちばんいいのは、監修者と翻訳者の間でコミュニケーションがとれるようにして、一方通行ではなく、なんらかのフィードバックが入る形を作ることでしょう。 そうすれば、翻訳者の理解も深まり、訳文の質は確実にアップします。

コストの問題

しかしそういうやり方を採ると、監修者の手間が増えます。ただでさえ翻訳書というのは原著者へのロイヤリティだのなんだのでコストがかかるのに、こ れ以上監修料を出すわけにはいかない。結局、安い料金で黙って翻訳だけ依頼して、そこそこの監修料で専門家に一度ゲラを見てもらって、あとは内部処理する のがいちばん安上がりだ――という考え方もあるかと思います。

けれども、その内部処理のところで編集者にたいへんな労力が強いられるとしたら、そのコストはどうなんでしょう。

(余談)編集者 の給料なんて安いもんですって? いえ、コストというのは編集者がいくらもらっているかではないのです。私も会社勤めをしていたころは自分のコストなんて 大したことはないと思っていました。けれども独立してみると、パソコンやコピー機といった機器の費用、打ち合わせの交通費、仕事をするスペースの賃料また は固定資産税、保険料から福利厚生費に至るまで、すべて仕事をするためのコストなのですね。つまり、編集のコストというのは、編集者の給料ではなくて、会 社が編集者に仕事をしてもらうためにかけているお金のすべてです。

直接的なコストばかりではありません。こういうやり方をしていると、翻訳者も監修者も編集者も、それぞれにストレスがかかり、無駄な仕事をしているという苛立ちに襲われるのです。

時間の問題もあります。出版が延びると追加のアドバンス(原書著作権者への前払い金)を払わなければならなかったりしますから、翻訳者にフィード バックをしている時間的余裕などないという事情もあるでしょう。けれども、最初の翻訳の段階でうまくいかないと、あとで監修者の手元で滞ったり、原稿整理 段階で手がかかったりして、結局予定通りに進まないというケースが多いのではないでしょうか。

(後半に続く)


(初出 サン・フレア アカデミー WEBマガジン出版翻訳 2008年4月14日号)